最近は理不尽だなと思ってしまうことをよく言われる。ただ、その人の忙しさも目に見えるのでしょうがないかと僕は処理してるのだが気づいた点があった。本当に僕は仕事をしていたっけ?と思う瞬間を体験してしまった。工事の仕事と他にも数個の仕事を社内で持っているのだが、この2ヶ月を思い返して工事の方がなんでこんなに進んでないんだろうと自分自身も考えてしまった。タイムカードの時間は正直に積み重ねてる。僕の記憶がところどころ抜けている。確実に日々重ねてるはずなのに、問われ続けると証明を自分で作っていなければ追い込まれるだけだと今気づいた。そして、不安になりネガティブになって沈んでいく。これからは日々の日報を自分で管理し、何があっても仕事を積み重ねていると確信が持てるようにしよう。その上で、どこに自分が時間を使っているかも見返していく。フリーランスを目指す自分にとって使った時間を見返し、有意義に使っていくための習慣になる。
最近、アーティストと未来の教育に関して話すことが多くあった。
僕は、近い未来の教育はAIに任せればよいと思っているのだが、彼女は反対。
彼女の言うこともよくわかる。学校での教育は教養だけではなく関係性を学ぶ場でもある。グループワークを養う場でもある。それを、個人で行うことには難しい点があるというのも納得がいく。日本で考えると、役割を分けたほうが大人のメンタルヘルス的にはすごく都合が良いと思う。日本の教育現場の現状でも残業が当たり前になっているところはあるだろう、ただ、伴って職を失う教育現場の職員も出てくるだろうとは懸念するが。
パッケージを教育委員会で作り、配布する。大学のように選択したカリキュラムを作る。人との関係性は親が作る。そういった関係でも人間は育つことが出来ると思うのだが。幼少期の記憶が大人になってからも作用するという話は昔の哲学者や研究者が多く発表している。つまり、子供にとっての大きな壁は親が作っているともいえるはずなのだ。特に日本での家族関係というのはヒエラルキーがいまだにあり、子供を子供として扱い、個人としては扱っていないように感じる部分は多く見かける。子供がいるわけではないので、意見を言える立場にはないと思うが。
ただ、一つの選択肢として、AIによる教育、パッケージを作り選択学習にする。これは、子供のころから特出した分野を育てることが出来、そこから派生させて学習していく楽しみを見つける習慣が身につくことにつながると思うのだが、どうだろうか。
久々に音楽を聴かずに歩くことができている。周りの景色に気付きながら。
そんな中で気づいたのだけど、考え事をしていたり、楽しんでいる時は必要ないらしい。ハンナ・アレントの本を読んだ後に彼女の言葉を考えていたら日常を切り離さずにすんだ。
「思考は、わたしが自己とともにあり、自己に満足していることのできるただ一つに方法なのです。」
哲学は世界観を学ぶための学問
ミネルヴァの梟は、黄昏になってから飛び立つ。ヘーゲルの言葉をハンナから知った。彼女の思考は容易く世界とつながる。どの角度からも、自己とつながり思考する。zineを書き、自身の言葉と対峙して世界を取り込む意識を持てるようになってきた。思索者として生きていこうと言葉にするのは尚早だが、ここで小さな声を発していこうと思う。