真鶴出版に宿泊。 念願の…?ずっと知っているところにやっと訪問できた。土地に対して強張らず、自然体で自分たちの好きで満たされている場所。場所に対しての言葉が溢れ5日の朝に実地してくれた街歩きでは、街に出る前のおしゃべりも含め3時間も僕たち2人に費やしてくれた。街の景観的美意識を通して、真鶴の歴史を語ることができるスタッフの來住さんからは街への愛情はもちろんのこと、興味を持った僕たちへの愛情を感じることができた。街を歩き、來住さんの日常に触れ(真鶴出版みんなの日常だろう)たことは昔ゲストハウスに抱いていた理想のようなものに戻ることができた気がする。 街への働きかけは意識しないで生活の延長線上でやっていけばいい。場に住まい日常を送ることで街との関係性は拓いていく。真鶴出版での滞在で、このことを再認識できたことは今回の大きな収穫。強い働きかけをしなくてもいいのだと気づけた。それよりもこの土地でどうやって生活していくのか、楽しめるのか。僕にとってはそこが重要だと思う。思う、と言っておく。正直、自分の感情がエゴなのか社会に合わせているのか、パートナーに合わせているのかはわからないから。他人といると意識が自分から離れていく。…ただ、その分自分の感情は見えてくる。定点での観測では見えないところまで、他人といたら遠景で自分が見えてしまう。それが怖いのだろう。 小さい声を出していく。彼らが作っている立ち上げからかいた自社伝は将来の時代を生きる人たちへの指標だ。いま、昔の作家の本を読むように、何回も周回して50年過ぎた20代、30代が何かを掴もうとして過去に目を向けたときにきっと役にたつ。古本屋で手に取り、まなづr出版の人たちの視座が彼ら、彼女らの目線となっていくことは容易に想像できる。それか、AIが文章を検出するか。 4日の夜に草柳商店で30分くらいの晩酌をお店のあーちゃん、しげさんとしていた。(しげさんは飲んでなかったけど。)コンドウカズミさんの脚本で真鶴舞台の演劇をしていたと聞いた。真鶴の40年後と今と過去、街をそんな目線で見ることができたら、どのような生活するようになるのだろうか。作家は観測者として、書いているのだろうが、みた人たちは未来に関してどのような感情になるのだろうか。 真鶴の美の条例は、極度のエゴイズムであるとも捉えられると思う。このエゴイズムは自己中心的というネガティブではなく、自分が大切にしたいものを守るという部分でのエゴイズム。そこでのブレは主張へのブレになり未来に何も残すことはできない。ただ、当時の彼らのエゴイズムは外に開いていて対話を求めるエゴだった。だからこそ小さい声えが周りに届いたのだ。 坂口安吾の本を読んでいるが、そこでこう語る。 「毒々しいまでの徹底したエゴイズムからでなかったら、立派な何者が生まれよう」 美の基準を作り上げた当時の人たち、五十嵐さんと町長は徹底したエゴイズムで人々を先導していたのだ。それが、今を生きる真鶴出版の人たちに渡り、世間に大きく広がろうとしている。 そのムーブメントの中を見ることができて、温度感を知ることができて。今回の久々の旅行は良い収穫になった。 ありがとう。
情報を伝えるときに要点をまとめるのが苦手です。ある程度文脈を共有している相手であればわかるだろうと省いた言葉で共有することが多く余計にやり取りが増えてしまったり。そんな事があった日にインスタで見た言葉を思い出した。作家の言葉“伝えるための言葉が多すぎて思考させる言葉が足りていない”、ビジネスマンの言葉“相手に思考させなくても理解できるように要点をまとめる”。僕の場合は仕事の場面で起きているから思考させない言葉選びをした方が良いのだろうが、クセというのは身につくものでどの場面でも思考を後回しにしたがる事が多くなる…のでは。実際、思考をできる人とのやり取りの方が少ない言葉で簡潔にやり取りができる。「思考させる言葉」は読者の思考力、読み取る意識を高めるだろうな。
最近は理不尽だなと思ってしまうことをよく言われる。ただ、その人の忙しさも目に見えるのでしょうがないかと僕は処理してるのだが気づいた点があった。本当に僕は仕事をしていたっけ?と思う瞬間を体験してしまった。工事の仕事と他にも数個の仕事を社内で持っているのだが、この2ヶ月を思い返して工事の方がなんでこんなに進んでないんだろうと自分自身も考えてしまった。タイムカードの時間は正直に積み重ねてる。僕の記憶がところどころ抜けている。確実に日々重ねてるはずなのに、問われ続けると証明を自分で作っていなければ追い込まれるだけだと今気づいた。そして、不安になりネガティブになって沈んでいく。これからは日々の日報を自分で管理し、何があっても仕事を積み重ねていると確信が持てるようにしよう。その上で、どこに自分が時間を使っているかも見返していく。フリーランスを目指す自分にとって使った時間を見返し、有意義に使っていくための習慣になる。
最近、アーティストと未来の教育に関して話すことが多くあった。 僕は、近い未来の教育はAIに任せればよいと思っているのだが、彼女は反対。 彼女の言うこともよくわかる。学校での教育は教養だけではなく関係性を学ぶ場でもある。グループワークを養う場でもある。それを、個人で行うことには難しい点があるというのも納得がいく。日本で考えると、役割を分けたほうが大人のメンタルヘルス的にはすごく都合が良いと思う。日本の教育現場の現状でも残業が当たり前になっているところはあるだろう、ただ、伴って職を失う教育現場の職員も出てくるだろうとは懸念するが。 パッケージを教育委員会で作り、配布する。大学のように選択したカリキュラムを作る。人との関係性は親が作る。そういった関係でも人間は育つことが出来ると思うのだが。幼少期の記憶が大人になってからも作用するという話は昔の哲学者や研究者が多く発表している。つまり、子供にとっての大きな壁は親が作っているともいえるはずなのだ。特に日本での家族関係というのはヒエラルキーがいまだにあり、子供を子供として扱い、個人としては扱っていないように感じる部分は多く見かける。子供がいるわけではないので、意見を言える立場にはないと思うが。 ただ、一つの選択肢として、AIによる教育、パッケージを作り選択学習にする。これは、子供のころから特出した分野を育てることが出来、そこから派生させて学習していく楽しみを見つける習慣が身につくことにつながると思うのだが、どうだろうか。
久々に音楽を聴かずに歩くことができている。周りの景色に気付きながら。 そんな中で気づいたのだけど、考え事をしていたり、楽しんでいる時は必要ないらしい。ハンナ・アレントの本を読んだ後に彼女の言葉を考えていたら日常を切り離さずにすんだ。 「思考は、わたしが自己とともにあり、自己に満足していることのできるただ一つに方法なのです。」
哲学は世界観を学ぶための学問 ミネルヴァの梟は、黄昏になってから飛び立つ。ヘーゲルの言葉をハンナから知った。彼女の思考は容易く世界とつながる。どの角度からも、自己とつながり思考する。zineを書き、自身の言葉と対峙して世界を取り込む意識を持てるようになってきた。思索者として生きていこうと言葉にするのは尚早だが、ここで小さな声を発していこうと思う。